みのもんたの人生相談と、『晩春』、『かぐや姫の物語』の死亡予告

 みのもんたさんが司会を務める番組に、「ちょっと聞いてョ! おもいッきり生電話」という人気コーナーがあった。

 みのさんと共に、ゲストが視聴者の相談に乗り、相談内容と問題点をまとめ、現状に対する回答として、いくつかの選択を用意する、といった内容だ。

 
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 ある回では、夫からの家庭内暴力に悩む(離婚すべきか否か)相談者に対して、みのさんは「(暴力を振るわれるのは)あなたにも原因があるよ」と言い放った。

 これを観ていたうちの祖父は、「みのもんたはときどき間違ったことを言う」と言ったのだが、「暴力を振るう方が悪い、暴力を振るわれるあなたは何も悪くないですよ」と答えたところで何も解決しないのだ。

 相談者は、夫と物理的に距離を取り、接触しなければ自分が危害を加えられることもないとわかっている。

 相談とは、「聴く」ことによって成立し、相手の言い分をすべて否定すればそれは成り立たない。
 相談者が「矛盾する思い」を聴いて欲しいのであれば、それを整理、反復すると、「あなたにはこういう考えと、一方でこうした考えがあり、どちらも理解できます。そこで矛盾が生まれるのですね。だからお悩みなのですね」と、なる。

 相談内容と問題点を整理した後、何をするか選択するのはもちろん当事者、相談者だ。

 もし相談相手に自分の考えを否定され、相談者からすれば「間違った意見」を言われたとしても、それによって自分の思いがわかる。

 相談に乗る側、カウンセラーのすべてを擁護するわけではないが、聴いて欲しいと請われ、話を聴き、相談内容をはき違えてしまうことや、相手の言うことを否定しまうというのは、ままあることだ。
 カウンセラーを職業にしているものにとってはあってはならないことだが、絶対に起こりえないということもない。


 ただ、互いに成人で、親しい友人同士であれば、耳の痛くなるような反論を受け入れ、向き合わねばならないときもあると言いたくなることもある。それもまた、本人に委ねられてはいるのだが…



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 ところで、先月高畑勲監督『かぐや姫の物語』を観た。映像はとても美しく、おそらく素直に観ても、深読みしても楽しめる作品になっている。と同時に、文法上新しい要素はなく、ブルジョワを超える存在という以外はまさに原点回帰と、なしうる技術の結晶と言ってよかったのではないだろうか。

 そうした意味で、この作品は高畑監督が「私たちは死んでいくものです」と宣言し、「生きていくもの」たちにバトンを渡したのだと思っている。

 これは小津安二郎『晩春』において、(単純に観れば)近親相姦に似た関係であった父と娘の関係が終わりを迎えるのにも似ている。「父」はすでに「娘」を作り、生殖の役目を終え死に向かっている。だからこそ、自ら「私はもう死んでいる」と引導を渡し、娘には新しい関係を築いてもらわねばならなかった。


 かように、「命のバトン」は明解である。


 しかしみのもんたがいなくなったら、私たちは誰に叱ってもらえばいいのだろうか?

 古くてダサくて、でも結構語りやすかったものがなくなったら、何を語ればいいのか、これからどう新しいものを作ればいいのだろうか?

 幸か不幸か、私たちの中にはまだまだ古くてダサいものが残留している。


 2013年のファッションは、ブレードランナーと80'sだった。

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 2014年ファッションは、絵画とスクリーン、コズミック、ポップスター。人間は背景=環境であり、また仮装し表現する主体でもある。


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 渋谷慶一郎氏が2020オリンピック東京開催決定に際し、「ヤッテ」から「キメる」と言ったことの後追いでもなんでもいいから、とりあえず入れるだけじゃなく「出したり」「作ったり」していこう。
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by boushiseijin | 2013-12-28 14:17 | rebirth